どうして城南小と松原小は近いの?
 昭和20年、戦災で全校舎を失った松原小校区の全児童も城南小学校に収納され、児童数3000人近い旧市内でも一、二の大規模校だったという。
 校舎は、平屋と二階建てで教室が足りず、理科室、音楽室、家庭科室とそれらの狭い準備室まで全部普通教室として使われた。
 それでも不足したので、一年生から三年生までは、午前と午後にわけて二部授業が行われた。
 昭和27年に松原小学校が新設され、児童が別れる。
 その際、現在の天文館公園の位置にあった旧松原小が現在の位置に移転したのである。

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パース通り
昭和49年4月23日姉妹都市盟約
 オーストラリアにあるパース市(南緯32度)と鹿児島市(北緯32度)は、ともに気候が温暖で民間交流が盛り上がる中で姉妹都市盟約が結ばれました。
 盟約後、さまざまな交流がされました。パース通りの命名はその一つになります。

塩屋水神社

天保山町

天保町の由来

 この町名は、このあたりを天保年間にうめたことから、天保山という名がついた。
 甲突川は河床が高く大雨のたびに川沿いの地を荒らしたので、第25代藩主重豪公は調所左衛門広郷に命じ、大阪の川さらえにならい、川さらえをしたらその土砂が山のように高く積まれた。
 天保年間に高く山のようにつみ、うめたてられたので、天保山という名がついたということです。

城南小学校

リスの森
〔校門すぐ横〕

学校のホームページへ

リスの森
りすは、いません。
みんなは、りすの森と呼んでいますが
正式には「リスと小鳥のすむ森」といいます。
学校に長く勤めている図書の先生の話によると、ある団体からりすを寄贈されたときに森が設置されたそうです。
記録には、昭和60年2月2日とされています。
ですが、逃げ出すということから、校舎内でりすを飼っていたという話です。

城南小正門

二宮金次郎像
 二宮金次郎(尊徳)は、江戸時代末期に農民の子として生まれました。
 貧乏のため学校にもいけず薪を集めては売るという仕事をしながら自分で勉強をしました。
 その勤勉さがお手本になるということで、小学校には二宮金次郎の銅像が多く建てられたようです。
 城南小学校にいつからいるのか、学校誌にも掲載されていません。
 交通事故の多い現在ではこの姿は合わないということで、だんだん見かけなくなりました。
城南小学校
 城南小学校を正門から撮影した写真です。
 すぐ前を国道が通っている、市内でも繁華街に近い場所にある学校です。
 城南小学校は、洲崎尋常小学校(創立当時の写真)として昭和5年4月に開校しました。
 多いときで1500人いた児童数も今は約200名と少なくなりました。
創立当時昭和5年の校舎の写真。
昭和20年に講堂と北校舎を戦災のため消失しました。
(この時、市街地の93%が焼けたそうです)
昭和58年5月31日に本館が解体されるまで、この校舎(昭和54年に撮影された写真)が使われたそうです。
戦災を逃れた校舎(昭和54年撮影)。当時は、西日本一と呼ばれた美しい校舎だったそうです。

西郷どんのえんこ
〔セゴドンノエンコ〕
城南小は正門から
スタートします。

創立当時の校旗です。現在の校旗は三代目になります。
今の校旗との違いは、中央に『城』の文字がないこと。
そして、小鳩を意味する中央の白いマークが下を向いていることです。
あこうの木の由来
あこうの木は、昭和七年(1937年)六月に植えられました。
城南小学校が新しくできたとき、市尋校から別れてきた五年生の橋口くんのお父さんが
「あこうの木は潮風に吹かれてたくましく育っていく木だから、城南の子どもたちが立派に育っていくように、あこうの木の成長と子どもたちの成長との成長比べのために」
と寄贈され、現在にいたっています。
平成2年2月12日には、市当局から学校が希望した記念樹として、第二号のあこうの木が正門南側の追思の碑の横に植えられました。
(写真は、今もなお元気な初代のあこうの木です)
船魂神社《ふなだま神社》
〔住所〕
新屋敷町5番15号
〔祭神〕
伊邪那岐尊 伊邪那美尊 二柱大親神(縁結びの神様)
住吉大神(海運・安産の神様)
猿田彦命(五穀豊穣・開拓・開運・悪疫退散の神様)
〔由緒〕
昔、この辺りは海岸地帯で、古くは製塩や漁業がさかんでした。
明暦3年(1652年)第19代藩主島津光久公が船魂廟を歓請《かんじょう》しました。
塩竈神社《しおがま神社》
〔住所〕
新屋敷町32番13号
〔祭神〕
塩土老翁(しおつちのおきなのみこと)
 別名 猿田彦命
〔由緒〕
昔、甲突川下流は、御船手のあった天保山河口(船魂神社)から旧塩屋町(塩竈神社)一帯まで海岸地帯でした。
当時は、製塩事業や漁業がさかんでした。
延宝8年(1628年)第18代藩主島津家久公が塩竈明神を歓請《かんじょう》しました。

学校のシンボル『あこうの木』
〔体育館前〕

甲突町

甲突町の由来

 この町は昔,武村の一部で塩屋町とよばれた塩田のあった所である。
薩隅目地理纂考を見るとここの氏神の塩がま神社の説明に
「祭神は塩土老翁,この地旧武村の内なりしを分ちて塩屋村とす。寛永5年建立なりという。延宝8年9月の棟札に薩摩鹿児島府鎮座塩がま明神則神代塩土老翁而当村守護の霊神他の記したり,この里の潟 浜すべて塩田にて蘭里塩を煉るをもって業とす。……… 」
と記されている。
この塩田のあったことから塩屋村の名がおこり,明治44年の武,草牟田の市合併とともに塩屋町となる。
ここの塩がまで生産量1,753石であった。しかし明治43年にいたってすたれたといわれる。昭和42年4月20日町名変更により甲突町となる。

南林寺町の由来

 薩摩沿革地図によると,このあたりは禅宗松原山南林寺としてあり,客殿の三門などがしるされている。
 また,三国名勝絵図には「かねの音も波にぞひびく暮深きこの山寺は海近くして」とあるように,往年は雨林寺晩鐘とよばれる鹿児島八景の一つとなっていた。
 したがって町名の南林寺は寺名からおこったものであるが,大正8年までは町としてではなく,市内で最も広い墓地として,南林寺墓地とよばれていた。
南林町
新屋敷町

新屋敷町の由来

 昔このあたりは田んぼであった。その時の藩主島津家久(慶長7年〜寛永15年)は上町だけでは城下町がせまかったので,田んぼをうめたてて,新しい屋敷町をつく った。それで新屋敷町と名づけられた。

川公園

昭和5年、創立当時の石の門が残っています。昭和58年(1980年)12月20日校門が南側に拡幅移設されました。以前の正門の写真は こちら
移設前の正門の写真です。昭和49年の卒業アルバムに収録。よく見ると、あこうの木の位置も違いますね。
鹿児島市内において唯一の水神さまといわれており、『信心するものは水の災いに遭わない』という言い伝えがあります。
水天尊が祀られています。
清滝、城南、錦江の三人の町内会長さんたちが改修にあたった地域の管理する神社です。
児童センターのあるすぐ川の横にあり、神具も納められているそうですが、見たことのあるひとはいません。
城南町

城南町の由来

 城南町はもと塩屋町の一部であったが,昭和38年9月1日市の条例によって新しくうまれた町である。
 町内の人の話では城南小学校の近くにあるから城南町という名ができたと言うことである。
 ※城南小は、島津家の“鶴丸城”の南にあることからついたと推測される。
城南ふるさと祭り
毎年、7月に城南ふるさと祭りが校区公民館運営審議会とあいご会(地域こども会)の主催で行われます。
各町内会で七夕かざりをつくって、川公園に飾ります。
また、中学生が主体となって、出店(風船つり
ふるさと祭りでは、城南を卒業した中学生がお店を運営します。
金魚すくい
金魚すくいは毎年人気があるので、あっという間になくなります。
)を運営します。
クライマックスにペットボトルロケットをとばします。
(平成19年は雨の中体育館で開催し、校庭でロケットを飛ばしました。動画はこちら
城南の特色ある地域活動の一つです。

西郷どんのえんこ〔セゴドンノエンコ〕


セゴドンのエンコ。城南子どもあいご会は、正門からスタート。
毎年、西郷隆盛の命日の前日(9/23)に行われる行事です。
西郷生誕の地〜終焉の地まで、約8kmの道のりをみんなで歩きます。
地図詳細は、こちらをクリック。(GoogleMAP使用)
スタートからゴールまで。各ポイントの動画とブログは、こちらをクリック!
(城南Tubeセゴドンカテゴリーに進みます)

松方橋
城南ふるさと祭り


みんな大好き、川公園


動画は、スポーツ少年団とあいご会合同で行われた川公園クリーン作戦の様子です。
クリーン作戦の感想は、こちらをクリック!(城南キッズ☆ブログへ)
理科や生活科の昆虫採集もここでします。
草むらをそっと歩くとバッタが跳ねるのでみんなでつかまえます。
かにもあるいています。

城南校区探検マップ 〜校区の古いものをさがそう〜


制作スタッフ

企画構成
 牧 健一〔どっこい〕(教諭)

入力協力
 アズキー&だいふく (6年児童)

イラスト制作
 じゃがりこ (6年児童)

イラスト彩色
 中トロ (6年児童)

作成の様子は、こちらをクリック!
城南キッズ☆ブログへ

二宮金次郎の銅像
〔図書室の前〕

制作
平成19年度鹿児島市立城南小学校
放送・情報委員会
二代目の校旗です。
この校旗から「城」の文字が入りました。創立50周年の昭和55年に改定があるまで、この校旗が続きました。